株式会社いつつ

将棋を学ぶ 2016年7月27日

思わず「へぇ〜」と頷く将棋の歴史トリビア5つ

金本 奈絵

日本における将棋の歴史は奈良時代以前に遡ることができるといわれています。奈良時代から現在に至るまでの悠久の年月の中で、将棋は様々な変遷を経て今の姿に進化しました。そこで、今回のいつつブログでは、将棋の歴史が紡がれていく過程で生まれた、思わず「へぇ~」とうなずきたくなるようなトリビアを5つ紹介したいと思います。

1.804枚の駒を使った将棋があった

大阪商業大学アミューズメント産業研究所「日本の将棋と文化展」より
大阪商業大学アミューズメント産業研究所「日本の将棋と文化展」より

以前いつつブログ「子どもに自慢できる!? 将棋にまつわる雑学5つ」でも触れたのですが、現在私たちが指している「将棋」は「本将棋」と呼ばれるものです。皆さんご存知かと思いますが、使用される盤はタテヨコ9×9のマス目のもの、駒は(玉、飛、角、金、銀、桂、香、歩)の8種類ですよね。

しかし、日本の将棋史上には、この「本将棋」以外にも、小将棋や大将棋など様々な将棋が遊ばれていました。

なんでもそうなんですが、ものごとは時間を経るに従い、洗練されシンプルになっていくものです。現在の「本将棋」でもルールや駒の動きがなかなか覚えられない人もいるでしょうが、昔の将棋はもっと複雑で難解。ちなみに大将棋だと、盤は15×15のマス目のもの、29種類130枚もの駒が使用されます。

そしてまだまだ驚くのは早いです。

現在知られている中で最も大規模な将棋は「大局将棋」と呼ばれるもので、使用される盤は36×36、駒の数は敵味方を合わせると、なんと209種類804枚にものぼります。

また、一つ一つの駒を詳しく見ていくと、水将、地龍、麟師、飛猫など、ファンタジー感溢れるもの、牛兵、木車、近王、力士(力士まで戦うんですね…)といったますます戦い方がわからないものなど実に多様になっています。これだと、盤に駒を並べていくだけでも相当時間がかかりそうですよね(^_^;)

ちなみに、「へぇ~」でおなじみの某テレビ番組で、実際に大局将棋が行われたそうですが、終了までにかかった時間は32時間41分、3805手だったとか…。

2.将棋の「王将」を作ったのは秀吉

昔は玉と玉だった!?
昔は玉と玉だった!?

将棋の対局を行うとき、現在では一般的に、格上の方が「王将」、もう一人が「玉将」を使用しますが、もとは「王」と「玉」ではなく、「玉」と「玉」だったようです。

この点について、「駒を作る人がうっかり点をつけるのを忘れた」という笑い話もあるのですが、実は、あの豊臣秀吉が日本で最初に「王」の駒を作ったという珍説もあります(作ったというより、作るように命令したそうです)。

そもそも将棋とは、古代インドのチャトランガという遊びが東南アジアを経て日本に伝来したと考えられています(漢字表記はもちろん中国からです)。古代インドでは王様が戦いの中心なので、「王」という概念が常識でした。

ところが、日本にはタイのマークルックという将棋に似たゲームが伝わったようで、マークルックには「貝」という駒があるように、世界でも珍しい、財宝を取り合いする(貝は古代、お金の代わりに使われていた)考え方があり、日本将棋はその影響を受けて、「玉」や「金」「銀」という財宝の駒ができたようです。中でも「玉」は「最高の宝石」という意味です。

日本最古の駒は奈良の興福寺旧境内跡から出土した駒で、平安時代の1058年のものです。「玉将」は出土しましたが、「王将」はありませんでした。

王将ができたのは、室町時代末期の南北朝時代、北朝と南朝という2人の天皇がいた時代のようです。「天に二君なし」(世の中に2人の王様がいるべきではない)という考え方から北朝と南朝は戦をするのですが、そうした時代背景の中、「王様が本当に偉くて、将棋でもそうでないほうに点をつけて玉ができた」という誤解から「玉将」が誕生したことになっています。

その有力説はともかく、秀吉が王将を考案したという説は、ある日秀吉が、「玉では宝という意味になってしまう!王にしろ!」と言い出したという話です。また、両方とも「王」ではなく「王」と「玉」になった点については、「双方とも同じ文字では混乱してしまう」という考え方のようで、「王は二人いらない」という秀吉の思いが反映しているのかもしれません。

さすがは戦国時代を生き抜いた秀吉。

財宝より戦争という考え方を優先していたため、こんな珍説が生まれたのかもしれません。また、秀吉には「王将」の代わりに「大将」という駒をわざわざ職人に作らせて指したという逸話もあります。秀吉が将棋ファンだったのは史実なのでいろいろなエピソードが生まれたんでしょうね。

3.ローカルルールのない本将棋

本将棋のルールが全国共通なのは参勤交流のおかげ
本将棋のルールが全国共通なのは参勤交流のおかげ

参勤交代とは、江戸時代に制定された大名統制の一つで、諸大名が原則1年交代で領地を離れ、一定期間を江戸で過ごすという制度です。

江戸と領地の往復にかかる旅費や同行する者たちの食事代など、労力も経費も非常にかかるため、大名の財政負担は相当なもので、幕府に反抗するほどの財力を持てなくなりましたが、その一方で、隣の藩に行くにも関所で厳しいチェックを受けていた時代に、自然に江戸の文化が地方に伝わり、また地方の文化が江戸に伝わる文化交流というメリットもありました。

実は将棋も参勤交代をきっかけに大きく発展した日本文化の一つだと言われています。

文化交流の主役は武士です。当時は、大名に同行して江戸詰めとなった武士が町の将棋会所を訪れる(そもそも、将棋会所はなく、風呂屋の二階などが将棋会所代わりだったそうですが)のではなく、武士は大橋家など家元が開いた道場に通う人が多くいたようです。江戸詰めの間に有段者として認定され、免状を取得する武士も少なくなかったようです。当時の有段者の免状はとても貴重なもので、関所で役人に見せると身分を証明する一つになったこともあったぐらいです。

さて、参勤交代によって江戸で何かを学べば、故郷に帰ったときに周りに教えたくなりますね。それが全国各地で武士から町人などにも伝わるうちに、将棋のルールが自然と統一されたようです。

世の中の多くの遊びにはローカルルールがありますが、将棋は早い段階でローカルルールがなくなったのは参勤交代があったからだと考えられます。そして、これが現在の将棋人気を支えていることは間違いありません。

ちなみに、同じ将棋でも、やまくずしなど将棋の駒を使った簡単なゲームなどは、地方によってルールが異なるようです。こちらは大橋家の道場では流石に教えていなかったんでしょうね!

4. 徳川家は「観る将」だった

現在の観る将のお目当は個性豊かな棋士たち
現在の観る将のお目当は個性豊かな棋士たち

観る将」とは、観る専門の将棋ファンを指します。

自分が将棋を指すわけではなく、「プロ棋士の勝負に注目する」「将棋イベントに足繁く通う」「パーティーなどで棋士たちと交流を図る」方たちを指す言葉で、中には将棋のルールを知らない方もいるそうです(^_^;)

近年の「観る将」の増加に一役買ったのは、ニコニコ動画などのネット配信。これまでと比べて露出が増えたことで、今まで世間に知られていなかった個性豊かな棋士たちに注目が集まり人気に火がついたようです。対局者の食事やデザートを映像や画像で紹介するのも画期的でした。野球やサッカーなどほかのプロの世界では考えられませんね。そうしたことから、「観る将」には女性が多いのも分かる気がします。

それではなぜ、ネットとは縁遠い江戸時代に、女性ではない徳川家の将軍たちが「観る将」になったのでしょうか。

徳川幕府の年中行事の1つに、江戸初期に始まった制度で「御城将棋」と呼ばれるものがあります。

「御城将棋」とは、毎年1回、江戸城本丸の御黒書院(おんくろしょいん)で将軍や老中など幕閣の観ている中、開催される対局のことで、日ごろ鍛えた将棋の技量を見せるため、将棋三家(大橋家本家、大橋分家、伊藤家)の代表がしのぎを削っていました。

享保年間、八代将軍、吉宗の時代に11月17日が対局日と決まり、江戸末期まで続いています。それを記念して11月17日が後に「将棋の日」になって、毎年、どこかの都道府県でイベントをしていますよね(^ ^)

ちなみに最初の方で「観る将」は観る専門、将棋のルールを知らない人もいるといいましたが、徳川家に限っては、「将棋を指すのも好き」という将軍も何人かいます。初代家康が好んで将棋を指していたのは有名な話ですが、歴代の中でも特に10代家治の将棋好きは筋金入りで、アマ高段者の腕前と推測されているほどです。当時の名人を平手(ハンディなし)で負かした棋譜もあり、こんなに強い将軍に観られていると家元たちも緊張しながら将棋を指したんでしょうね。

5.将棋の駒が五角形なのは木簡のリサイクルだったから

将棋の駒はなぜ五角形?
将棋の駒はなぜ五角形?

弊社の社名「いつつ」は将棋の駒の形、五角形から来ているのを皆さんご存知でしょうか?

いつつブログでも度々お話しているのですが、将棋のルーツは古代インドのチャトランガです。そこから枝分かれして、中国のシャンチーや韓国のチャンギ、西洋のチェスなどができたわけなのですが、同じ兄弟であるにもかかわらず、日本の将棋の駒のように五角形の形をしたものは見当たりません。シャンチーは円形、チャンギは八角形、チェスやマークルックは立体型の駒を使っていますよね。

実は、日本の将棋の駒が五角形である理由について、定説ではありませんが、こんな言い伝えがあります。

時を遡ること平安時代。

当時日本では、文書の記録や整理、検索をするのに木簡や題籤(だいせん)といった、5角形の形をした木材を使用していました。これらはいずれも、使い終わると、削りなおして再使用されていたのですが、再利用を重ねるたびに小さくなり、文書の記録には適さなくなってしまいます。そこで、当時の日本人は、小さくなった木簡や題籤を将棋の駒として再利用したのではないかと私たちは考えます。

現在、「もったいない」という日本語が世界でも注目を集めていますが、木簡を将棋の駒としてリサイクルしていたことは「もったいない」の精神から来てるんじゃないかなって思います。

ちなみに、室町時代の将棋盤は遊びの台という役目を終えた後、まな板として使ったものがあるそうです。厚みが1寸(約3センチ)で長方形だと、まな板に使いたくなったのでしょうね。包丁傷がたくさんあったので分かったそうです。

使えなくなってしまったものに、別の機能を与え、最後まで大切にするというのは、非常に日本人らしいエピソードですよね 。ちなみに、いつつの布製将棋盤も将棋盤としてではなく風呂敷としても使えます(^ ^)

参考:「日本文化としての将棋」 尾本惠市 編著

*

こうしてみてみると、歴史が長いだけに将棋には興味深いエピソードや言い伝えが色々ありますよね。

日本には将棋と同じように、長い間たくさんの人に親しまれた伝統文化がたくさんあります。

なお、今回のブログを制作するにあたり、日本将棋連盟・将棋歴史文化アドバイザーの西條耕一氏よりアドバイスをいただきました。この場を借りまして、お忙しい中ご協力いただきましたこと、心より感謝いたします。

この記事の執筆者金本 奈絵

株式会社いつつ広報宣伝部所属。住宅系専門紙の編集記者を経て現在に至る。

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